poohnomuのブログ

今晩何呑むか、何食べるか考えるのが生きがいです。

【晩酌以外の話】ぷーのむは一日にして成らず ③祖母のこと。

これまで父のこと、母のことを書いてきました。
二人に関する自分なりの考察が、今の自分の確認になりました。
自分に似ている部分、自分が引っかかっていた部分、今の自分につながる部分、、
良いことも良くないことも、今の自分の一部なんだと。


どちらも、けっこうパンチの効いた人たちなんで、書いてる自分もけっこう
まぁまぁパンチの余波を感じましたが。(・∀・)  まぁ、まぁ。



今日は、自分の大好きな母方の祖母のことを書こうと思います。(*´∀`*)
自分が生きる気力を保って大人になれたのは、この祖母のおかげです。


幼稚園から高校までずっと一緒の、自分の家族のことをよく知る幼なじみに、
「あの家で育って、アンタ、よぉグレへんかったなあ」と言われたりしてましたが、
当時の自分がグレるつもりも特になく、そのままそれなりに成長していけたのは
たぶん祖母がいてくれたからだろうと思います。



 母の実家である祖父母宅は、自宅から電車で1時間ほどの場所にあり、学齢期は多くの週末を母子揃ってそちらで過ごしていました。母の骨休めという意味合いが強かったのかなと、今振り返ると思いますが、自分にとってはオアシスみたいな祖父母宅でした。
 そこでは母もさすがに小言を言わず、父も酔って暴れに来たりしなかったので。


 昔気質の働き者で、家事が得意だった祖母。家は狭いながらもよく整理され、掃除の行き届いた室内にいつも季節の生け花があり、お布団はふかふかでお日様の匂いがしました。そして何より、祖母の作るご飯は、どれも普通のおかずだけど、本当においしかった。今思い出しても、自分の理想の家庭は「おばあちゃんの家」です。心底落ち着ける、本当に幸せな場所でした。
だから、いつも家に帰る時間になると、またあの辛い家に戻るのかと、涙が出ました。母に見咎められるとまた叱られるので、泣いてなんかない顔をして帰宅の途につく。
日曜の夜って、辛いもんですね。サザエさん症候群ですね。(それは今も(笑)。)


 そんな祖母に、自分が長期にわたってお世話になった期間が、二度ありました。
一度目は、姉が持病で治療入院したため祖父母宅に預けられていた夏休み。
二度目は、弟が生まれたため祖母が自宅に泊まり込んでくれていた一か月です。


 一度目の祖父母宅での夏休みは、控えめに言ってもパラダイスでした。良き生活環境で、ヤヤコシイ父母もおらず、子供は自分だけ。((o(^∇^)o)) 羽伸ばしまくりです。
 年寄りの家なのでおもちゃはなかったけど、近くには大きな公園と無料の私設図書館?のようなものがあり、終日そこで本や漫画を読んだり、公園の遊具で遊んだりとエンジョイしてました。祖母と市場へ買い物に行ったり、毎日銭湯に通ったり、自宅とは違う落ち着いた時間の流れ。あの時期の過ごし方が、今も自分に「楽しい時間とはこういう時間のこと」という感覚になって根付いていると思います。


 祖父は明治生まれの寡黙な元軍人で、お喋りとかはしないけど、孫の自分をなんとなく大事にしてくれていることは感じられました。一方祖母は、働く手をいっときも休めず、その傍らでいろんなことを自分に話してくれました。母のこと、母の兄弟のこと、親戚のこと、京都で奉公に出ていたこと、勉強好きで本当は奉公でなく高等女学校に進みたかったこと、結婚して大阪に来て戦争でものすごく苦労したこと、等々、、
 この頃の祖母とのやりとりは、ものすごく印象に残っています。苦労人の祖母に比べ、自分はなんと恵まれていることか。おばあちゃんは勉強したくてもできなかった、それなら自分はおばあちゃんの分まで頑張って勉強しよう、、、子供心にそう感じました。


 二度目の祖母の滞在時は、ウチの家族が最も落ち着いて過ごせた期間じゃないかなと思います。母は産後で新生児の世話が大変だったと思いますが、祖母が家のことをしっかり整えてくれたので、父も姉も自分もとても心穏やかに過ごせました。本当に感謝しています。


 その後自分が成長して、中高生の頃も、大学生の頃も、暇を見つけては祖母宅で過ごしていました。その習慣が変わったのは、自分が就職して地方赴任になってからです。祖母宅に簡単には行けなくなり、寂しいながらも、そんなもんかな、、と思ってました。


 その後祖父が逝去、祖母一人の住まいとなって数年。なんと祖母の隣家が火事を出し、祖母宅に延焼。間一髪で逃げ出せた祖母は無事でした。祖母宅は全焼ではないものの、到底住める状態ではなく、祖母は、私の実家に身を寄せることになりました。


 祖母は昔気質なので、自分は長男である叔父の家で同居するものと考えていたようです。が、叔父の嫁(叔母ですね)は強烈な個性が爆発している人で、(祖母もこの嫁を本心では快く思っていなかったようですが)彼女は祖母との同居を拒否、長女の母が祖母を引き取るべし、父も亡くなって家には(スペース的に)余裕があるでしょう?と強弁し、火事場のどさくさ紛れに母に同居を押し付けた、、、という経緯がありました。
 祖母は長年住み慣れた家を失った悲しみと、叔父一家の心ない対応に、本当に消耗したようでした。母は母で、父が亡くなったばっかりに兄嫁に「足元を見られた」ことが本当に悔しかった、と言っていました。

 自分は地方にいて、一連の知らせを聞きました。祖母が丁寧に整えていたあの家が、永遠に失われたこと。苦労人の祖母が、最晩年になってまたも非道な目に遭っていること、、、本当に世の中は、人生は、不条理だと思いました。



 自分は、あんな叔母の家に行くより祖母はウチに来たほうがよっぽど幸せだ、自分だって祖母がウチにいてくれればよっぽど心穏やかに暮らせる、と身勝手なことを思ったりもしました。と同時に、自分は祖母に良くしてもらったのだから、今度は祖母に少しでも幸せな思いをしてもらえるように、頑張ろうと思いました。


 何年か後、ようやく自分は大阪勤務となって実家に戻り、そこでの祖母を交えての暮らしは、心穏やかなものでした。祖母はもう随分年老いて、生活には不自由なところもありましたが、ボケることも一切なく、デイケアの人からも「人柄の良い、カワイイおばあちゃん」と親しまれていました。火事のことは本当に酷かったけど、ウチに来てくれて、祖母と過ごせる時間が長くなったことは、全く身勝手ではありますが、自分にとっては不幸中の幸いと思えました。


 程なく祖母は白内障手術のために入院し、そこで風邪をもらって肺炎にかかり、その後、特別介護施設での療養生活となりました。施設に移ってからの祖母は、事あるごとに「我が家に帰りたい」と繰り返していました。祖母にとっての「我が家」は、もう私の実家がそうなのですが、でも、本当は、長く住んだあの大阪の「我が家」なんだろうな、、とも自分は思っていました。
 自分はその頃(今もですが)仕事がとても忙しく、祖母の施設にしょっちゅう顔を出すことは難しくなっていました。今思うと、それは間違いでした。もっと自分は祖母のところに行くべきでした。祖母は施設で発熱し、それが死因となりました。75歳でした。


 不思議なことが一つありました。祖母が亡くなったちょうどその時間、近所の人が、祖母がウチの団地の階段を上がっていく姿をはっきりと見た、というのです。
「アンタんとこのおばあちゃんが、階段を上がっていかはるの見たよ~。あぁ、退院してきはったんや、良かったなあと思ってたんやけど。亡くなってたん?!!ホンマに?!!!」
ホンマです。祖母は「我が家」に帰ってきてたんだなあと、自分は信じています。
祖母は自分のウチを「我が家」と思ってくれていたんだな、と思うと、泣けてきました。


 葬儀に際し、湯灌というご遺体を清浄する作業(儀式?)がありますが、自分は願い出て、祖母をケアさせてもらいました。涙が出て止まりませんでした。父の時はただ呆然と線香をあげるだけだった自分ですが。もっとばあちゃん孝行すべきだったよ、、、自分は。
時すでに遅しでした。


(ちなみに祖母の葬儀会場に、叔母は喪服ではなく、なんと! 平服 でやってきたのです!!従兄弟たちも平服でした。葬式の時は着替えるのかしらと思っていたら、そのまま。心底ビックリです。叔父はさすがに喪服を着ていましたが。なんちゅう家や。信じられへん!ほんまにヤバイ、非常識極まりないご遺族!祖母をあんな人々に預けないでホンマに良かったわ!!!と自分は腹の中で毒づいていました。あんまり腹立たしいので書いちゃった。



「あんまり人の悪口言うたらアカンでぇ」


ハイ。ペンギンちゃんすんません。




今回も、長い文章になりました。
どなたかがお読みになっていても、どなたもお読みにならないとしても、自分は満足です。自分の大事な祖母の思い出をこのようにまとめる場所を提供してくださっている、ムラゴンブログさんに本当に感謝です。


読んでくださった方、ありがとうございました。



では。